私たちの地域を豊かに幸せに。プラウト社会実現へ向けて2。 プラウト(進歩的活用理論)の3本柱。
全てのものはそれをそれとして成立させる支柱があります。その支柱の多くは三つ組となっています。たとえば机は基本的に3本の柱があって初めて机として成立します。この机の柱の一本でも欠けると机はそれとして成立しないのです。こういった3本は個別の柱でありながら相互に深く関連し不可分で一体のものとして機能します。キリスト教的に言えば三位一体と表現できるでしょうか。 プラウト(進歩的活用理論)は全生命の幸福を目指し、先ずは個人、家族、地域からその実践を開始しますが、それを成立させていく3本の柱は以下になるように思えます。
1、 世界・宇宙(自己)観(感)の拡大。
2、 高い倫理。
3、 高い透明性(情報の共有)。
実践に当たってこの三つ組は互いに連動し合って機能します。ただしあえて運動する中でのその役割による位置づけを整理してみますと以下になるように思えます。
・ 中核(哲学、思想):世界(自己)観(感)の拡大。
・ 運動推進の両輪 :①高い倫理。
・ 運動推進の両輪 :②高い透明性(情報の共有)。
1、支柱1.プラウトの中核:世界観(感)自己観(感)の拡大。 ・源流:プラウトの世界観自己観
「私たちは、一瞬たりとも忘れてはいけない。命あるものの世界全体が広大な結合家族であることを。自然はこの富のどの部分をもいかなる特定の個人には割り当てなかった。…宇宙の富の全てが生きとし生けるものの共有財産であるとするならば、あるものが贅沢にふけり、あるものが食べるに事欠いて徐々に衰弱し餓死していくというようなシステムをどうして正当化できるであろうか。」(『資本主義を超えて』p7) 中核とは「それに関するあらゆるものが発生する源であると同時にそれらすべての行為の帰結するところ」という意味です。世界(宇宙)と私(自己)は不可分です。私を離れて世界はないし世界と離れて私もありません。従って世界(宇宙)をどう観るかは同時に私(自己)をどう観ているかを表します。観と表記しましたがこれは頭で思考した観というより実感としていかに体感経験しているかが本質になります。ここから実際の言動、行為実践が派生してくるのです。生命の息吹を感じられない荒涼とした卑小で薄っぺらな世界(自己)と観(感)ずるなら行為はそれに準じます。そうではなく生き生きとした限りない豊かさ美しさ神聖さを実感として観じられたなら実践運動もそれに伴ったものになります。世界観自己観が運動の源流になるのです。 プラウトはこの世界(宇宙、自然)が「至高存在」の現われと捉えます。(『〃』p38)「至高存在」(世界各地では神、絶対者、創造主、無限の生命等でも称される)の2面である「純粋意識」(父)と「自然エネルギー」(母)が干渉し展開されたのがこの世界(宇宙)であり万物と観ます。この全体を自然とよび自己(私)も無論その一員です。「至高存在」と自己(私)の関係は火(至高存在)と火花(自己)でよく表現されます。大きさや形態等は比較にならないが本質は同じと言うことです。そしてこの見方は日本の伝統的自然観と通じます。自然万物に神が宿るというのが「八百万神」。もしくは万物は本質として仏との「悉有仏性」も相通じます。自然・万物が至高存在の投影だから「世界全体が広大な結合家族」であり「宇宙の富の全てが生きとし生けるものの共有財産である」となります。自己を含め全ての存在に無限の豊かさ美しさ神聖さを見出しています。ここから全生命の幸福を目指すプラウトの実践が展開していきます。
・ 資本主義の世界観自己観
プラウト世界観に対し世界を席巻してきた資本主義の世界観自己観はいかなるものだったのでしょうか?次のように指摘しています。「資本主義は17世紀のイギリスの哲学者ジョンロックの考え方に依拠…「森の中に自分の区画を定め…所有する権利、好きなように使用する権利を獲得する、」と。私的所有という疑う余地のない至上の信念は資本主義の根本をなす。」(『〃』p34)。資本主義では世界・自然を所有する対象と観ています。所有したもの例えば森ならそこにある鉱物から動植物、そして先住の人間までも、好き放題支配改変し搾取できるとの見方です。そして事実それに基づいた行為をやり続けています。先住者は奴隷として売買、多くの動植物が種として絶滅しています。世界・自然に真の豊かさ美しさ神聖さを観るならば、それを回復不可能なぐらい改変汚染し暴力で傷つけることができるでしょうか?所有支配すべき対象、荒涼とした卑小で薄っぺらな世界観これが資本主義の世界観です。付随する資本主義の自己観は?万物を私的所有支配できる“偉大な”「自己(私)」ということでしょう。しかし裏返すと裸の自己、本来元来の何も所有できていない自己(私)は矮小で惨めな存在という自己観でしょう。コンプレックスの裏返しです。ここには世界(宇宙、自然)と自己(私)との深刻な乖離・離反があります。貧しく不幸な世界観自己観は当然貧しく不幸な行為を展開します。資本主義の虚飾の裏で延々と繰り広げる隠蔽、暴力、詐欺、略奪。この不法行為が更に貧しく不幸な世界と自己を形成してきました。資本主義賛美者は世界の事実を見た上でこの見解を否定できるでしょうか?
・帰結点:自己実現(愛の実現)世界観、自己観の拡大 「究極的には、サーカーにとって、進歩とは精神性である。サーカーのスピリチュアリティは、真我の個人的実現と定義される。ヨーガの瞑想修練と、思想と行為の純潔に加えて、サーカーは解放の手段としての社会奉仕に大きな重要性を置いた。サーカーは、人間の内面の開発のサポートが社会的環境には必要と考え、資本主義と共産主義の両方を、人類がスピリチュアルな生き方の黄金時代に前進するには不適切な社会構造であるとして拒絶した。」(『ウィキペディア』より)
プラウトは全生命の幸福を目指す社会奉仕運動ですが、この実践行為の流れの帰結点は「真我の個人的実現」であることを前文は明示しているのです。そしてその自己実現とは「解放」だと示しているのです。「自己実現」を説明するのは困難です。しかしあえて説明すればこのようにいえるのではないでしょうか。自己の欲求願望を成就し思い通りに生きるのが自己実現ではありません。自己実現は自己と存在全てが解放される経験をいいます。内奥に在る本来の自己、真の自己が解放され露わになります。そこで存在全てが輝き出します。それは「至高存在」が展開している無限の世界(宇宙)と自己(私)が一体化する経験といっても間違いではないでしょう。「火(至高存在)と火花(自己)」の関係の体験です。リアリティとしての体験だから世界観、自己観は必然的に拡大します。世界と自己が一体化したここで「世界全体が広大な結合家族」の真相、生き生きとした限りない豊かさ美しさ神聖さを観ます。」。 拡大した世界観自己観は中核、源として全ての生命の解放へと行為の流れが派生するのです。プラウトは人間の内面と社会環境は分けられないことを観ているので、「瞑想修練と、思想と行為の純潔に加えて社会奉仕に大きな重要性を置いた」プラウト運動が展開し、またその流れが自己実現へと帰結します。プラウト全体が源から派生し源に戻っていく循環運動となります。「自己実現」とは別の言葉で表現すると「愛の実現」です。愛から始まり、愛に基づき行為し、愛に還るということです。また、自ら始まり、自らに基づき行為し、自らに還る・・・。自らに由(よ)りて、自らに在る、「自由自在」ともいえます。 実践で体験することが大事なのであって、最初から豊かで美しい広大な世界観自己観を有していることが必用というわけではありません。実践、学び、体験を通じて「世界観、自己観」が徐々にでも変容拡大していけたなら「解放の道」を歩んでいるといえるのではないでしょうか。プラウトの中核を現に育んでいるのです。